時代差・地域差を無視した記述

 まず目に付く欠点は、「中世の農業は」と、平安末期・鎌倉期・南北朝室町期という都合12世紀から16世紀におよぶ400年間の時期をひとくくりにして叙述してしまっていることである。実際にはそれぞれの技術の発展には時間的差があり、それぞれの時期の農業技術の発展が、それぞれの時代の社会に大きな変化を与えてもいるのである。

 二毛作はすでに鎌倉時代において全国的に広がっていた。ということは、その始まりは平安時代中期にすでにあったはずである。
 二毛作の文献的初見は1118年であり、1264年の関東御教書では幕府が水田二毛作の麦について領主の所当徴収を禁じており、すでにこの時代に二毛作が関東も含めて全国的に広がっている事がわかっている。
 中世後期の室町時代における変化は、二毛作に継いで三毛作が一部の地域で行われている事である。
 1420年に国書奉呈の任を果たして帰国の旅についた明使の宋希璟は摂津尼崎で、「日本農家は、秋に水田を耕して大小の麦をまき、翌年の初夏に刈り取り、ついで稲苗を植えてそれを秋初に稲刈りて、次に木麦(蕎麦)をまいて初冬に刈り取る。一水田に一年に三たびまく」と、畿内地方では米⇒麦⇒蕎麦の三毛作が行われていた事を記述し、その農業技術の高さに驚いていた。

 また牛馬耕はすでに5・6世紀には始まっており、中世前期の鎌倉期には畿内ではかなり広まっていた事が、法然上人絵伝などによっても確認されている。

 さらに水車は9世紀には中国からもたらされ、庭園池の引水に使われていたらしいことは徒然草などの記述からも知られ、13世紀初め(鎌倉末)に作られた石山寺縁起絵巻には、宇治川においていくつもの水車が設けられ、水田に水を自動的に引くことができていたことが知られる。そして、1429年に来日した朝鮮通信使の朴瑞生は、畿内農村で自転揚水車を目撃して朝鮮の竜骨車(人が水車の羽を踏んで動かすもの)より便利である事を賞賛し、この模型をつくって帰国後国王にこれを献じ、水車の普及を進言している。
 水車は15世紀の畿内においては、かなり一般化していたことがわかるのである。

 また16世紀には朝鮮から木綿の栽培技術が伝わった事が記述されているが、これも全国に直ちに広がったわけではない。主な産地は、三河・摂津・駿河・相模三浦各地方である。この耐寒服にとって重要な役割を占める木綿の産地が偏っていたことは、この後の歴史に大きな役割を果たす事になる。

 そして以上のことからもわかるとおり、農業技術の発達は地域による差が見られたということである。常に進んだ技術を持っていたのは京都を中心とする畿内であり、そこから全国各地に進んだ技術が広まるという構造にあったのである。この畿内の先進性は、この地域における工業・商業の発展とともに、この地域の社会の変化が日本の中で最も早かったということを示し、それが政治社会的変化にも繋がっており、見逃すことはできない。

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